【文系数学】得点アップのために必要な8つのこと

※ 以下は大学入試のために数学を学ぶすべての人へのアドバイスです。最後まで目を通して、学習に参考にしてください。

定義をたたき込む

定義に戻って考える習慣はとても効果的で理系科目では本来必須の常識です。大学初年級の理系学生は定義の重要性を必ずたたき込まれます。しかしながら高校以下では定義の重要性はなぜか全く徹底されていませんし、それどころか定理や公式と混同されることもしばしばという状態です。これは、大変にもったいないことです。定義に戻って考えることは、数学が最終的にできるようになるために必要不可欠なことなのです。

記号・用語の意味を自分の言葉で説明できるまで、記号・用語に慣れ親しむ

応用問題を解くためには数学的な事象を自分の言葉で適切に解釈したり言い換えたりすることが必要になってきます。そのための準備としてまずは記号、用語の意味を自分の言葉で言い換えることはとても良い訓練になります。この「自分の言葉で言い換える力」は、そのまま学力のバロメーターと言っても良いでしょう。

定理や公式は自力で証明できるようにする

数学の良い所は「確かであるということを理解できる」ということです。「確かであるということ」にたどり着くプロセスは、(特に他の文系科目とは異なり)面白く、またエキサイティングなものなのです。しかし、公式や定理の証明ができないということは、数学を確かなものとして理解できていないということであります。このような学習では、数学の本当に面白さにたどり着くことは難しいのです。さらに、定理・公式の証明には応用問題の考え方や解法が凝縮されています。つまり、応用問題の原点とも言えるのです。こんなにありがたいことを無視するほどもったいないことはありません。一見遠回りに見えることでも、結果的に一番の近道となるのです。

視覚化を考える

これが数学の真骨頂です。数学的な事象、もっと大きく言えば目に見えない自然の法則を目に見えるようにするのが数学の役目なのです。また、実際に入試問題を解くという場面でも、グラフや図を利用することで問題の意味が視覚化され、より確かな解答ができます。数学では計算や論理が重視されていますが、実は「視覚化」が最も重視されるべきなのです。最初は下手でも構いません。グラフや図をできるだけ正確に書けるように、日頃の学習から意識しておきましょう。

好きになる。

これには説明の余地はないでしょう。「好きこそものの上手なれ」を現代語訳してみましょう(「こそ」+「已然形」の係り結び、これは詠嘆の意です)。数学が好きなのであれば、あとはきちんとしたステップを踏んで学習を進めていけば大丈夫です。自然と数学の学力が向上し、望んでいたような成績を取ることができます。どうしても数学が嫌いだと言う人でも、毎日数学と触れ合っていると「どうしても嫌い」から「嫌い」くらいまで感覚が変化します。さらに、「嫌い」から「普通だ(=嫌いではない)」という状態になれるまで学習を続けてみてください。「嫌いではない」という状態に到達するためには、学習を継続することと、問題の難易度設定が大変重要です。「嫌いではない」という状態までこれれば、入試数学なんて案外簡単に克服できるものです。

自然さと自由さを尊ぶ

数学は自然で自由だということを意識する

数学は一般に思われているよりずっと自然でかつ自由なものです。しかし、基本事項の正しい理解なしにはその自然さも自由さも感じることは出来ないでしょう。言い換えれば、自然さと自由さを感じることができればそれだけ数学ができるようになったということです。後はそれこそ自ずと上達するでしょう。

具体例

例えば、基本的な公式の証明にも色々な方法があることが多いのです。まして、入試などで出題される応用問題であれば、アプローチの仕方だけでなく計算処理の過程なども含めて様々な道筋があるものです。その色々な道筋は基本事項が理解できていれば皆自然なものでさらに多くの場合それらの道筋の選択に絶対的な決まりなどはなく自由に選択すれば良いのです。具体的には、以下のような場合です。1 点と直線の距離の公式2 指数関数 \(y = e^x\) の導関数3 \(x^2+y^2=1\) の時の x+yの最大値、最小値

これらの問題を解く場合には、色々な方法で、しかも基本事項に基づいた自然な発想による方法で考えることができますし、その方法の一つ一つには優劣はなく選択は自由です。

「問題には決まった解法が始めから存在していてそれを知ることが数学の学習である」という考えに固執する人がいますが、そのような考え方ではいつまでも解答の必然性が理解できずに結局は忘れてしまいます。一方、自由な発想で自らの自由な意思、判断に基づいて自然なものとして選択した解法は忘れにくいのです。

「やらされた」ことより「自分の自由な意識により自然なものとして選択した」ことの方が記憶に残りやすいのは当然の結果でしょう。この自由さ、自然さを意識することで解答の再現性が高まるのです。

暗記に頼らない

※特に「わからないから暗記する」は無駄です。忘れるだけです。数学の問題を解くという作業は、その問題がどんな簡単な問題であっても、その都度毎にそれなりの思考を経て確かなものとして解答しているのです。決して、丸暗記した過去の記憶を想起して解答しているのではありませんし、そのような姿勢でクリアできるのは(一部の学校の)定期テストくらいなものです。入試数学で合格点を取るためには、目の前にある問題に対して常に新鮮な気持ちで当たらなければいけません。数学は一度理解してしまえば案外簡単で、その後しばらくはすらすらと学習が進むものです。言い換えれば理解のハードルはそれなりに高いということです。しかし、そのハードルは絶対に越えなければいけません。「わからない」を自覚したときはけっして焦って丸暗記に逃げてはいけません、立ち止まって考えるもよし、指導者の指導を仰ぐもよし、とにかく理解するための努力が必要です。

「なぜ」を重視する

数学の考え方や解法にはある程度の必然性があります。もちろん解答全体の中には特に必然性のない、どうやっても良い部分もあります。つまり、解答においては必然性が求められる部分と、どうでも良い部分とが混在しているのです。このようなことを見極められないまま、十羽一絡げにして解答を暗記するのは良くない勉強法です。正しい勉強法は、必然性のある部分を必然性のあるものとして理解することなのです。なぜそのように解くのかを理解すること、つまり、解答の必然性を理解することは解答の再現性を獲得するために最も大事なことと言って良いでしょう。数学だけに限りません、どんな分野でも初心者は上級者に対して「なぜ?」の疑問を投げ掛け続け上級者はそれに応え続けるということは正しい態度と考えられているはずです。皆さんも人生の初心者である幼児が上級者である大人に「なんで◯◯なの?」という問いを延々と投げ掛け続けている光景を目にしたり、もしくは自分の経験として身に覚えがあったりするはずです。このように本来自然でかつ重要な「なぜ」が数学の学習においては不思議と封印されてしまいがちなのはどうしてでしょうか。二つの理由が考えられます。一つは「なぜ」は学習者によって十人十色なので指導者の対応が大変であるため指導者が敢えて重視しない(重視できない)、という現実です。これは指導者側の責任です。もう一つの理由は「学習は結局のところ記憶なのだからなぜかはわからなくても覚えておけば良い」という誤った姿勢に陥っている学習者が多いという現実です。これは重要な部分で間違った認識を含んでいるようです。「学習は記憶だ」というのは正しいのですが、学習は脳科学的に言えば記憶の部分集合なわけですから、そもそも当たり前のことを述べているにすぎないのです。学習は記憶の一形態であることは間違いないのですが、その中でもある種の問題解決能力を獲得することを学習というわけです。学習は記憶の中に含まれています。だからといって、理解をともなわないような丸暗記を続けることを主張することは間違いです。これでは、数学の学力を向上させることになりません(現実的には「暗記」をする中でそこに含まれる論理性に気づき、ゆっくりと「理解」を獲得できる受験生も存在しますし、そのような学習の仕方が向いている受験生がいることも確かです。しかし、多くの受験生は「暗記」にとどまってしまっているようです。せめて暗記したものが頭に残っているうちに、「なぜ」を補ってほしいと切に願います)。先に挙げた「学習は…」は正しくは「学習は記憶ではあるけれども必然性が理解できなければただの記憶に過ぎないから忘れるだけ」なのです。「なぜ」を重視して必然性を理解することによってのみ再現性のある解答ができるので

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